ブログ...日々の中で、ふと考えたこと

感謝のゆくえ

2020年8月15日
昔のことをつらつらと思い出すことがある。
そこに登場する人、人、人たちがいる。
あぁ、なんであの人は僕にあんなに優しかったんだろう。どうしてあの時あの人はあんなふうに僕によくしてくれたんだろう。
なぜあの人はあの時あんなことを言ってくれたのだろう。
今あらためてあの人に出会ったこと、そしてその人がくれた交わり、言葉、時間、そして御恩に感謝せずにいられない。
誰しもそんな思いになったことがあるのではないだろうか。

もちろん、その中の一部の人たちにはずうっとよく会っていたり、または、会おうと思えば会えたりする。思い出話をしたり、昔を振り返り、さりげなく、あるいは真剣に、感謝の気持ちを行為や言葉にすることもできる。
だが、思い出せば思い出すほど大抵の人はもはや感謝の言葉も気持ちも何一つ届けられないところに行ってしまっている。
あぁ、あの時あの人に自分は救われ、励まされ、こうして生きて来れたんだな。でも、もはやその感謝をあの人には返せない。

感謝したい人にその思いを返せない。そうした思いを抱えたとき、人はこう思ったりしないだろうか、せめて、目の前の人、子どもたち、これから出会う人たちに少しずつでも返そうと。

案外、人はそんな思いのバトンをつないで生きているのかもしれない。


大注目です

   教育改革が叫ばれ、国は高大接続改革を進めようとしている。その中心にあるものは、「主体的・対話的で、深い学び」だ。だが、私は今こそもっと足元にある学びという営みそのものの本質に着目するべきだと考えている。
   主体的や対話的である以前に、正しく正確な学びが成立する前提条件こそ、教育の質の向上に欠かせない。それは、日本語の『読解力』である。
    国立情報学研究所の新井紀子氏は、日本の子どもたちの『読解力』に着目し、リーディングスキルテスト(RST)を使って調査研究を行っている。
   

知識構成型ジグソー法

アクティブラーニングとは?
もっとも、最近、文部科学省は意識的にこの用語を使わない。
何やら、体験型学習であるかのような誤解を招くからだろうか。
代わりに意識的にかつ、頻繁に用いられるのが「主体的・対話的で深い学び」である。

では、「主体的・対話的で深い学び」は、いかにして可能か?
私が思うに、これは自ら知識を構成し、自らの狭い見識を他者の見識やより広い知識や考えを取り入れつつ再構成する営みを各自が他者や自らと対話しながら再構成していくことで可能になる。

今日、紹介したいのは東京大学が提唱する「知識構成型ジグソー法」」である。
詳しくはこちらのHPを参照して欲しい。http://coref.u-tokyo.ac.jp/archives/5515

ポイントは、クラス全員に一つ発問を教師が設定し、各自が自分の知識と調べた資料から答えを考える過程と、そうして得た各自の見識を同じ資料に基づいて検討し合う過程、そうして得た見解をさらに異なる資料を用いた他のグループのメンバーと交換し合う(自分の言葉で表現し合う)ことで知見を広げ、深める過程、さらにそうして得たより広い視点からの深い見識を発表(表現し合う)することでより広く深く考えられるようにする過程、最後にまたそれまでの学びを自分の中で整理し論理的に表現する過程を設定するところである。
つまり、各自が自分なりの考えを論理的に構成する過程と互いに異なる見識を交換し合うことで各自の知見を広げ深める過程を繰り返すところである。

これを私なりに言い換えるなら、こうであろう。
「問い」と問いに対する暫定的な「答え」とその「理由・根拠」を表現し合い、他者の視点から「深められた自己の考え」を再構成して表現し合う過程を授業の中で実現するということだ。

これこそ、小論文を書く際の思考ステップ以外の何者でもないのではないだろうか?

やはり、考え学ぶ営みの表現としての小論文を基盤に置いた授業の必要性を説いてきた自分の主張と重なり合うと思う。
何と命名しようが、つまるところ、学ぶという営みの本質は共通する。

学ぶ営みの筋道を基本に据えた授業実践によって、主体的に探求し、自分の考えを表現する力をつけさせること。
それこそが、今教育現場で求められており、その一つの実践モデルが「知識構成型ジグソー法」なのだと思う。


2020年に教育は変わるか?

現在の中学3年生が、大学入試をするとき、共通テストが変わる。

センター入試が終わり、新しい共通テストが始まる。

共通一次がセンター入試に変わった時とはわけが違う。

そこでは、試される学力の質が大きく変わろうとしているからだ。

もっとも典型的な変化は、答えのない問いが盛り込まれる点である。

センター方式では採点の労力から作れなかった記述式が入ってくる。

採点に時間と労力がかかるために避けてきた「答えが一つではない問題」を導入すると言うのだ。

はっきり言って無理だろうとたかをくくっていたが、民間業者を入れて意地でも記述式を入れると言うのだから、文部科学省も本気と見える。

そうなってくると、アクティブラーニングも本格化せざるを得ないと考える吾人も多いだろう。

しかし、である。

アクティブラーニングを全ての授業で本格化する道と並行して、もう一つ文科省が見落としている点があるのではないか。

何しろ、思考過程を論理的に表現する力を問おうと言うわけだから、長い間私が夢見てきた教育改革がいよいよ本格化せざるを得ないと私は考えている。

それはどういうことか。アウトプットを中軸に据えた技能教科「小論文」をカリキュラムの核(コア)に据えたコアカリキュラム型の教育課程編成である。それは、国語と公民の一部を独立させた科目である。そこに、英語の四技能が加わる。

 

ところで、今度の共通テストだが、英語では「読む」「書く」「聞く」「話す」の四技能を問うという。英語でもインプット中心だった今までよりもアウトプットにシフトせざるを得ない。

 

 はっきり言って嬉しい。

問題は、現場の教育がどう変わるかである。

 

正解のない問いに、論理的に思考し、判断し、論拠をあげて解答する。

ほら見たことか。小論文を書く力そのものではないか。

全ての科目で小論文を書く時間を導入するか、はたまた私が長年夢見て来た、教科「小論文」を導入するか。

現在のところ文科省は、全ての科目でアクティブラーニングを実現し、かつ新教育課程で新科目を考えているらしい。

これまた、私が夢見てきた「探求」科のようなものらしい。

しかし、それはどうも理系科目らしい。しかし、小論文から研究論文へと発展する科目を、文理問わず創るべきだ。

そう考えると、ますます、「小論文」を核とするカリキュラムへと移行せざるを得ないと思うんだが…。

 

どうか、真の意味で主体的な学びを育てる新設科目を真剣に検討してほしいものだ。

 

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夢を見るという力

人は夢を見る。


現実がつまらないから。
現実が受け入れられないから。
今の自分に満足できないから。
もう少し背伸びしてみたいから。
いや、現実に飽きたから。
どう思おうが、今の自分や自分の置かれた状況に満足できないから、人は夢を見る。
夢を見ることは自由だ。
自由は常に人間に与えられた特権と言って良い。
手に入ることを夢見る人もいれば、とうてい手に入りそうもない夢を見ることもある。
現実が受け入れられないなら、夢想することでしばし現実を忘れて夢見る時間を楽しめばよい。
しかし…、
どうせ夢を見るなら、手に入れることを夢見るべきではないか。
手が届くところに夢をもて、というわけではない。
夢の現実との距離を言っているのではない。
どんなに遠く見えても、そこに向かう意思が無ければ、虚しいといいたいのだ。
どんなに距離があってもそこに至る道筋が見えている夢を見るべきだと思う。いや、道筋が見えなくてもあきらめきれない夢を見よう。
単なる夢想にたわむれているよりも、現実を夢に近づける意思と努力が見える夢を見よう。
そうすれば、夢を見る力が現実を夢に近づける原動力になる。
自分を元気にする力を持った夢を見ることができる人間は幸福である。
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出会いと別れ

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人知れず感謝です

今日は、自分が顧問をしている部活の子どもたちの企画した卒業生を送る会がありました。
この会は、生徒たちが自主的に始めたもので、もう少なくても4年は続いています。
何より嬉しいことは、生徒たちが企画から運営まで、自分たちの手で行っていること。
自主性や企画力に欠けると思われがちな今どきの高校生ですが、そんなことはない。
顧問の私が全く手を貸さずとも、見事に先輩から後輩にノウハウが受け継がれ、毎年嗜好を凝らし、思いのこもった素晴らしい会が実施されています。
勿論、大人が企画した方が簡単です。しかし、そこは一つ子どもたちに任せ、信頼してみるべきだと思うのです。
私も今年はちょっとだけ協力させていただきました。ささやかな贈り物、手作りの贈り物に一枚加わらせていただきました。
苦労して成功させた生徒たちが一回り成長してくれたことを信じて、家路に着きました。
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自画像

はたして人は、どこまで正確な自画像を描けるだろうか。
鏡を前に筆を取り、細部までこだわって筆を走らせる。
デッサン力の問題ももちろんあるだろう。しかし、
それよりももって根深い問題がそこにはないだろうか。
願望という色眼鏡をどこまで外せるか、だ。

ひるがえって、今度は他者を描いてみよう。
見たままを描いてみる。
しかし、ここにもまた根深い問題があるだろう。
一面性という問題だ。
自分が見ているその人は、はたして、どこまでその人そのものなのか。

描く技術の問題を脇に置き、客観性に徹したいと思っても、私には自分を見つめる時に、願望という眼鏡が外せず、他者を描く際にも一面性という限界を超えることが難しい。

ドイツの哲学者カントは、感性形式にもたらされない物自体は、認識できず、悟性のカテゴリーなしに知的認識は得られないと言った。

私は、そこにさらに二つの制約を加えて見たい。願望という自我にまとわりつく感情と、一面性という感覚につきまとう身体性だ。

人を、自己であれ他者であれ、あるがままに認識するには、人間はあまりにも未熟な存在だ。


祈るということ

人間のできることには限りがある。

どんなに力んでみても、どんなに行動してみても、自分の力で変えられることには限界がある。
明日の命すらどうにもならないかもしれない。
そんな、自己の限界を自覚したとき、人は祈るのだと思う。
有神論的実存主義のヤスパースというドイツの哲学者がいた。彼は、人知を超えた神のようなものを「包括者」を呼んだ。
人間の認識は限界状況までであり、そこから先にはただ、包括者を知ることはできず感じることしかできない。例えば、人間は「死」という避けることができない限界状況が存在することを知るこてとはできても、「死」とは何かを知ることはできない。だから、われわれ人間は、現行状況の向こうにその存在を感じることしかできない包括者へと祈ることしかできない。
彼は「真理は二人から始まる」とも言っている。
人は一人では生きていない。他者もまた自己の思い通りには生きていない。生と死が限界状況であるように、他者もまた限界状況である。そして、他者との交わりなしに自己はない。限界状況の外との交わりなしに人は生きられない。人はだから、常に不安を抱え、生きざるを得ない。
他者や死といった存在を通して示される自己の限界状況と、自己の外へとつづく交わりに気づき、他者への愛を自覚するとき、人は生かされてある自己、導かれ、支えられ生きている自己があることに感謝せずにはいられない。
限界状況の外にある、包括者への感謝が祈りの本質なのだと思う。
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価値相対主義の落とし穴

本当に書くという行為は、記憶の片隅に沈み込んでいたものを引き上げてくれる。
小論文を授業に取り入れ始めたころ、よく生徒はこんなことを書いていた。
「みんな考え方が違うんだから、みんなに共通した正しい答えなんてない。私がそれを正しいと思うんだから、それで良いのではないか。他者には他者の考えがある。私はそれを否定しない。」
時代的なものをそこに感じる。もう死語にになりつつある「援助交際」が問題になっていた時代だ。
当時は、援助交際について書かせると、こんな内容の解答が多かった。
「援助交際は、私はしようとは思わない。だが、したいのであればそれは個人の自由だと思う。」

自然科学には正解があり、人文科学や社会科学には正解はない。科学的な真理という点で、人間や社会に関する真理への懐疑が強かった時代だ。オウム真理教の幹部に理系の学生や文系でも優秀な学生が多かったのは、こうした人間の生き方に関する懐疑主義が背景にあるような気がする。宗教はそうした懐疑に対する絶対的な価値判断をもたらす力を持っている。

過度な価値相対主義は、だから、人間の生き方に正しい基準なんてどこにもないという懐疑主義へと結びつく。

私が授業で小論文を書かせることを始めたのは、まだ、そんな時代の空気が残っていたころだった。
人として、といった道徳や倫理に著しく自己中心的な個人主義が広がった時代だ。
援助交際をする未成年の女子が、誰にも迷惑をかけてない。自分の生き方は自分で決めれば良い。他者に迷惑をかけない限り、生き方に正しいも間違いもないと、開き直り、それに対する説得力のある反論がなかなか見つからなかった時代だ。
朝まで生テレビで、「なぜ人を殺してはいけないんですか?」という学生の発言に有識者たちが満足な答えを提示できずに話題になったのも、このころだったような気がする。

私は、生徒たちに言い続けた。

「人はみな、一人ひとり考え方が違う。だから、みんなにとって正しいことがないのではなく、みんなで正しいことを探すことが大切なんだ。違うから共通点を見つけることができる。最初からみんなが同じ答えをもっているのなら、対話する必要も、議論する必要もない。小論文を書くのは、そうした真理の探究へと自分を開いていく営みなんだ。」
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書くということ。こだわりの原点

小論文を書く目的は、読み手に自分の考えを理解してもらうことだ。しかし、「書く」という行為にはもう一つ大切な目的がある。

自分自身との対話である。

対話、と書いて思い出した。確か、古代ギリシアの哲学者プラトンだったと思う。「考える」ということは自己と対話することだと、彼はどこかに書いていた。そして、彼は膨大な数の哲学書を「対話」形式で書き残した。一説に、書きながら死んで行ったとも言われている。
書くことで自分自身の考えがはっきりとしてくる。書きながら、自己と対話する。
対話することで自分の中に何かが浮かんで来て、次第にはっきりと明確になる。ぼんやりとしか頭に浮かんでいなかった何かに、ことばが与えられる。

自分がなぜ、小論文指導にこだわり続けて来たのか。それを思い出した。
「考える力」を生徒たちの中に育てたかったからだ。だから、小論文を「書く」という行為を授業に取り入れようとした。

書くと、どんどん思い出す。書くとそれまでの頭の中にあった靄が晴れ、その向こうにあったものがはっきりしてくる。書くことで、頭の中のクラウドがことばという形に整理される。ことばという形でファイリングされることで、安心して次の事柄に心が向き合える。

もともと私の授業へのこだわりは、「対話」のある授業だった。林竹二先生の授業に感銘を受けたのが始まりだった。生徒との対話がある授業を展開したい。それは、今言われるところのアクティブラーニングと求めていることは同じだったと思う。何も、活発な話し合いだけがアクティブラーニングではない。表面的に活発に見えても、薄っぺらい思考力しか発揮していない授業より、先生だけが喋っていても生徒の心の中に深い対話が生じている授業の方がよりアクティブなラーニングになっている。

私が林竹二先生の授業に感動し、自分もやってみたいと思った授業は、生徒たちが自分自身と深く対話する授業だった。それには、小論文という方法が優れている。それが端緒だった。

書くということは、自己との対話。そして、他者との対話へと自己を開く行為である。
書いたものを読んだ者が、またそこから対話する。生徒との往復書簡が次のテーマだった。そうして、添削指導を始めた。他者との対話を通して学ぶ。書くことを通して深い学びをさせたい。そう考えて、生徒の書いたものに赤ペンで対話し始めた。実に楽しかった。次第に小論文指導を受けに通ってくる生徒が増えた。放課後に列をなすこともあった。次の課題は、いかに効率的に多数の添削指導をこなすかになった。そして、授業を通して「書く」力を身に付けさせるにはどうすれば良いのか、を考えるようになった。

書くと、次から次に思い出す。だが、あまりに長い文章は嫌われる。もう今日は、やめておこう。小論文指導を始めた端緒と、そこにあった思いを明確にできたことで今は満足したいと思う。


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負の妄想

単なる偶然ですかね。今日は朝の出勤時も、夜の帰宅時も、電車の緊急停止に遭遇しました。
朝は、線路内に人が侵入した恐れがあったそうです。帰りは、人身事故。
今日は3月10日。受験に失敗しての…。それとも、別れの季節だから、何かに絶望して…。いや、就活が解禁された月だ。早くも就活に絶望した学生が…。
それとも、配置換えの時期だから…。いやいや、非正規雇用が4割もいる世の中だ。経済苦に喘ぐ人も増えているのではないか。
勝手な負の妄想が次々に頭に浮かぶ。
いずれにせよ、電車がやたら止まる。その多くが人身事故だ。それほど、苦しい人が増えているのか。

緊急停止車両の中で児童虐待の通報が増えているという記事が目に飛び込んできた。児童虐待の通報数は、学校におけるいじめ報告件数と同じで、かつてなら発見されない事案を発見し報告するようになったと前向きに捉えることもできる。
車内の人のほとんどが薄べったい四角い光に取り憑かれていて、誰一人として視線が合わない。
不気味な時間が流れる。これもこれで、暇の潰し方が変わっただけで、依存せずに上手に付き合うようになっていけば良いとも考えられる。
かく言う私も、ちょっと大きな四角い光に向ってキーボードを押してこのブログを書いている。

しかし、近年の人身事故の多さには閉口する。歩きスマホでホームから転落者が増えているという人もいるだろう。だが、そうとも思えない。やはり、経済的な閉塞感が大きく背景に広がっているように思えてならない。
静かにしかし、着実に夜が更けていくように、じわじわと、しかし着実にサラリーマンの貯蓄が減っているという。

未来に不安を抱えながら、それでも景気が良くなるとは思えない。未来が不安な家計から景気を浮上させる消費は生まれない。
先行きに確信の持てない企業が内部留保に多くの利潤を回さず、給与をあげて行くとも考えにくい。
アベノミクスは、三本目の矢が飛ばないうちにその役割を終えようとしているという記事を読んだ。
財政政策と金融政策だけで景気が浮上するというのなら、もうとっくにそうなっているのではないか。


本当に信じられる明るいニュースがそろそろ必要だろう。

未来に安心を与えるようなニュースをもたらす政治が今ほど必要なときはないのではないか。
今がどんなに苦しくても、歯を食いしばって生きて行こう。そう思わせてくれる政策を掲げ、信頼という文字とはおよそ無縁に成り下がった政治に、信じてみたくなるような具体的かつ斬新な政策を打ち出せる政治家はいないのか。

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過剰な存在

人の心は常に過剰な存在だ。身の丈にあったものだけを求めるなら、何も悩まずに済むのに、常に自然に反して求めすぎてしまう。
時間は同じだけ与えられているのに、常に短いとか長いとか、足りないと言ったかと思えば、もて余したりする。
今、こうしている瞬間に本当は違う時間の過ごし方があるのではないかと考えたり、無理と承知で未来や過去にワープしてみたくなったりする。
つまり、人間は自然から外れてしまった動物なんだろう。
身体という自然に反して、頭痛を無きものにしたかったり、休息を欲しているのに眠りたくないと抵抗したりする。
そうした悪あがきを繰り返しながら与えられた時間だけ生きて自然に還っていく。

生きるとは過剰を消費することだ。
人類が過剰な欲望を持たなければ、自然を壊したりしてこなかっただろう。
ただ生命を維持し、子孫を残すことでその使命を果たそうとする他の動物とは異なり、人間は愛などということばを知ってしまった。
永遠などという自然界には存在しないであろう幻想を求める。

文化とは過剰の幻想が生み出した人類の精神的遺産であって、文明とは過剰な欲望が生み出した物質的遺産だと思う。
身の丈にあったものだけを求め、今ここだけに生き、生命の維持活動に埋没できたなら、自然を傷つけたり、自然を過剰に消費することもなく生態系の一部で生き、死んでいけたであろうに。
悲しみも、哀しみも、動物らしく感じたり、喜びも、悦びも、ヒトらしく受け取れたりしただろう。

過剰の発現装置である人間らしい心を消してしまいたい。
でも、それでは人間として生きたことにならない。なぜなら、人はヒトではなく人間としての「生」しか生きられない過剰を抱え込んだ厄介な存在だから。

どこまで生かされれば自分の寿命が尽きてくれるのかを人間は知り得ない。だから、人間は恐れる必要もない死を思い悩む。
人間は知り得るはずもない死を知りたいと望む。知り得ないものに怯える。だが、そうした過剰が人間らしさなのだ。

だとすれば…、私は動物であることを忘れずに、それでも人間らしい悪あがきの仕方を知りたい。

「人間」らしい身の丈にあった生の在り方を見つめ、求めたい。

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星空のすすめ

やっぱり、星空はいい。星をながめていると、悩みや不安が消える。
ぼくは、よく星空を見上げてはボーッとするのだが、今は金星に釘付けだ。
日本中のどのくらいの人が、昨年の暮れくらいから金星が南の夜空にひときわ眩しい光を放っていることをご存知だろうか。
とっても美しい金星(ビーナス)が、目を細めるとまるで漫画に描かれているかの如く十文字に眩い光の筋を放射している。
今晩もまた、仕事の帰りに、ふと夜空を見上げると、ビーナスが輝いていた。
人知れず、誰が見ていようと見ていまいと、全力で光っているその姿を見ると、美しいのを通り越して愛おしさすら覚えてしまいそうだ。
きっと、星は人間に見られることなんて期待していない。それでいて、見る人の心を優しい気持ちにしてくれる。
ここで、告白すると、夜空の星を眺めていて、ふと、ああもう死んでもいいかもって思うときがある。
昔、友人たちにそんなふうに言ったら、「死んでもいい」までは思わないけどね、みたいな会話になったことがあるから、やっぱり僕は少しおかしいのもしれない。
 
何千年も前の人類も、この星空を見ていたんだろうなって思うと、自分なんてとってもちっぽけに思えて来る。そして、さっきまで何をぐじぐじしてたんだろうって。 自分なんて宇宙から見たら、取るに足らない存在でしかない。そんなちっぽけな自分の瑣末な日常がどうなろうが、この世界にとっては、何の問題にもならない。
でっかい宇宙に抱かれ、吸い込まれてうくうちにそんな気持ちになるのは、たいてい日常生活の中で何かしら自分ではどうしようもない壁や悩み、不安、ストレスをかかえているときだ。
そして、星空に吸い込まれながら、悠久の時間の流れに思いを馳せると、不思議と幸せな気持ちになって、ああ、もう死んでもいいやって思える。それは悲しい死ではなく、幸せな死。ちっぽけで無力な自分を素直に受けいれられる瞬間なのだと思う。
こんなに優しく、切なく、満たされた気持ちにしてくれる星空。
だから、  僕は今日も星をながめる。誰かを傷つけてしまった自分、自分の醜いエゴやら小賢しい企みやら、そんなものを抱えながら、ただ、この世界に生まれて今ここに生かされている自分を受けいれるために。
何かに悩み、傷ついたりしたら、その気持ちが癒えるまでは、星を見つめ続けてみてはどうだろうか…。
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オリジナリティ

ホームページを作成し始めて、あらためて考えてしまうことがある。自分の書く内容がどこまでオリジナリティを持っているのか、と。
作成に当たっては、自身が今までに生徒向けに作ってきたプリント類を参考にしている。しかし、その内容はおそらく誰かの本やウェブサイトから学んだことがほとんである。自分なりの加工や改善をはかったであろうが、とてもオリジナルとは呼べない代物だ。
このサイトが収益が伴わないものであることがせめてもの救いだ。もしも、広告収入その他、利潤の追求が伴うならば、情報やコンテンツのリソースをもっと明確にしなければならない。
ズボラなこのサイトの管理人は、乱読、併読、目に付いたものを手当たり次第に貪り、メモり、取り入れる。その際、出典を明記することもあるが、ほぼしてこなかった。
確か、私が好きな書き手である鷲田小彌太さんだったと思うが、オリジナリティとはほとんど他人のアイデアの模倣の上に生まれるといった内容のことをどこかに書いていたと思う。
99%の模倣の上の1%のオリジナリティが、このサイトにもあれば良いな、と思う。

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出た!モンスター。世も末か?

ある雑誌で読んだ。とある小学校のPTA総会で、保護者からこんな意見が出たそうな。

 

「こちらが給食費を支払っているのに、子どもたちに『いただきます。』といわせるのは、おかしい!」

 

会場にいた先生方は、あまりの予想外の発言に言葉を失ったとか。

 

ウーむ。これは、実話だとしたら、笑えん。

 

1.日本語の「いただきます」という美しい言葉の意味が分かってない。

2.お金でしか、価値を図れない。

3.学校教育におけるPTAの役割が何なのか、考えていない。

・・・

 

言いたいことはいっぱいあるが、とりあえず、根拠のない自信をもち、学ぶという謙虚さに欠ける子どもが増えているのは、このような偏狭な価値観をもった保護者が増えていることと関係がある気がする。

 

 

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いつからこんなに(孤独な分衆)

いったいいつからこんなに日本は、孤独な分衆の社会になったのだろう。
散歩をしていて気がつくことがある。行き交う私に「おはようございます。」と声をかけて来るのは間違いなく日本人のお年寄りや外国人である。まず日本人の若者は挨拶をしない。だが、日本人のお年寄りと、外国人では挨拶をして来る理由が違う気がする。
外国人は、挨拶で敵意がないというメッセージを交わすと聞いたことがある。しかし、日本人は、そもそも敵だなんて思ってないから挨拶を交わすのではないだろうか。すると、若い日本人は他人に対してこの人は敵の可能性があると思うから、挨拶をしないということになるのだろうか。
若者を見ていて、年々、人間関係を作るのが苦手になっていると感じる時がある。少なくとも、新しい人間関係を作るのにとても時間がかかる。いや、地元の旧友から外の友人へと移行しないで、いつまでも同じ仲間で集まっている傾向が強いといった方が良いだろうか。
今の若い日本人は、居心地の良い場所を離れて、新しい出会いを求めることに臆病なのではないか。自分が仲間と認めた間でしか挨拶をしない。それは一方で、挨拶を交わす間柄になったのちに、挨拶しなくなる間柄になることを恐れているのではないか。つまり、基本的に容易に他人を信頼し切れない関係が根底にある気がする。
欧米には、人は皆、考えていることが違うとういう個人主義がある。だから、常に言葉を発することで互いの考えを示し合うことでしか互いを理解できないと考えている。私がそう実感したのは、アメリカにホームステイした時だった。朝、コーヒーは好きか?砂糖はスプーン何杯入れるか?などと聞かれ、スプーン2杯の甘いコーヒーが好きだと答えると、それから2週間、毎朝甘いコーヒーが出てきた。ある朝、時間がなくて車に飛び乗った私を追いかけて来て、甘いコーヒーを渡した時は、その徹底ぶりに驚いた。さらに驚くことに、オレンジジュースが好きだと言ったら、その日以来、甘いコーヒーとオレンジジュースが両方出てくるようになった。(後から考えたら、コーヒーとオレンジジュースのどちらかでいいと言うべきだった。日本人はNo thank you.を言うのが苦手だ。だから、ついつい勧められるままに飲み食いし、美味しくもないのに美味しいと言ってしまう。おかげで、私はホームステイで、10Kgも太ってしまった…)そして、個人主義が根付いていることを確信したのは、ホームステイ先に小さな子どもがやって来た時だった。初対面の私に、youはどこから来た?何をしにアメリカに来た?などと質問責めにする姿に、日本人ではそんな子どもはまずいないと思った。
話が少しそれた。要は、今の日本人は、中途半端に個人主義なのだろう。基本的に他人を信頼し、地縁を重んじていた昔でもなく、かと言って、全面的に他者を他者として尊重し、コミュニケーションによって信頼を築こうともしない。この中途半端な心持ちが、孤独な分衆を形成しているような気がする。
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日本はどこに向かうか(格差是正の逆転現象)

日本は、人口構成がかつてないほど、高齢にシフトしている。先進国で唯一?所得の再分配後に格差が広がっている日本。通常は格差是正の効果を持つはずの社会保障制度と累進課税制度が、結果的に格差を広げるという逆転現象を起こしているのだ。
その原因の一つに少子高齢化がある。高度経済成長から、バブル景気まで現役で働けた年代が今の後期高齢者には多い。貯蓄好きな日本人が貯蓄に回せる資産的な余裕があった時代を生きてきた人々だ。一方で、現在の現役世代は、バブル景気が去った後に働き出した人々が多くなっている。非正規雇用が4割へと増加した時代に、確実に日本人の所得は減少した。こんなふうに言うと誤解されそうだが、単純化すれば、所得の低い現役世代から集めた所得税や社会保険料が、比較的裕福な世代の高齢者の年金や医療費へと流れていると言うことになるのではないか。いや、間違っているのなら申し訳ない。
だが、もしそうだとしたら、若者よ。興味がなくても選挙に行くしかない。行ったとしても、高齢者には数で勝てないシルバー民主主義かもしれない。しかし、政治家の顔をもっと若い世代の方に向けさせない限り、日本人の未来は暗い。
もちろん、高齢者たちが悪いのではない。彼らは、今まで日本を支え、社会保険料払い、その上の世代を支えてきたんだ。彼らがの年金や医療費が減らされることに怒る充分な理由もあるし、不安になるのももっともだ。ただ、今の若い世代の不安は高齢者たちの想像を超えているだろう。
だから、若者たちよ、選挙に行くしかない。人気稼業である政治家たちも、比較的高齢だ。立ち上がれ!若い世代よ。かく言う私ももう若くない。君たちが立ち上がったのちの世では私の世代は損をするかもしれない。それでも、今の日本の歪な構造は改革しなければならないんじゃあないかい?
少なくとも、格差拡大と合わせて、日本の教育にかける予算の低さを見るにつけ、この国は真剣に未来を見つめているのだろうかと疑問に思うのは、私だけだろうか。
だから、思う、かつて現役世代が高齢者を支えて来たように、これからは、高齢者が未来を作り、未来の希望を育てる現役世代を支える社会を作るべきだと。
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コミュニティ型資本主義?(資本主義の今後)

最近思います。これからの日本は、地域とかコミュニテイがものすごく大切になるって。

新しい、複数の世代をつなぐWin-Winの関係をつくるところから日本の未来が見えてくるんじゃないかなって気がしています。「人はみんな、少しずつ持っているものが違う。そして、みんなが少しずつ足りないものを補いあう。」そんなコミュニティをいかに作り上げていけるか。

 

確か、プラトンの『国家論』のなかに、そもそも、複数の人間がそれぞれ得意な才能を発揮し合って、共生することで「必要な国家」が生まれるといった内容が出てくる。しかし、その国家もやがて贅沢をできるところまで発展すると、他国から自国を守ろうとするために、軍人という専門階級をもつようになる。こうして、「熱に浮かされた国家」が生まれ、世界に不正が広がる…みたいな内容だったな(もう10年前くらいに読み直した切りだから、けっこうあやふやな記憶ですが)

 

今の日本は、熱を冷ましている期間かもしれない。バブルの後、人々は気づいている。本当に必要なものなんて、それほどないことに。だから、これからは、「本当に必要なもの・こと」を、もっているひとが与え、欠けている人が受け取る関係をいかに上手に創れるか、だと思うんです。欲求を作り出して市場競争で資源を配分する、それが資源の最適配分になったアダム=スミスの時代は、とっくに去っている。今や、膨れ上がった欲求は、一部の金持ちのマネーゲームの世界や、「もう一つの現実」みたいなものを作り出している。バーチャルな世界について行けないこちら側の、現実は肌で触れる感覚の伴うものだと思っている人間たちは、そろそろお金儲けからは降りて、心を満たす社会を作り出したくなっているような気がする。

 

快楽主義者のエピクロスが、「隠れて生きよ」といったが、これは不自然・不必要な欲求が渦巻く、社会から距離を置き、真の友愛のなかで生きよ、という意味だと思う。そこに、真の快楽(アタラクシア=心の平安)があるのだから、と。日本人は今、特に若い世代において欲求が小さくまとまって来ているようにも感じる。それはもしかしたら、最低限で、自然な欲求を満たし合う社会へと向かう前兆ではないのだろうか。大事なの多くの人の心の欠乏(需要)と能力の余剰(供給)をいかに上手に結び付けることができるか、それを資本主義と呼ぶかどうかは、分からないが。僕は、今の仕事をやりながら、そんな社会をつくる方法を模索していきたいと思っている。

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