現在の中学3年生が、大学入試をするとき、共通テストが変わる。
センター入試が終わり、新しい共通テストが始まる。
共通一次がセンター入試に変わった時とはわけが違う。
そこでは、試される学力の質が大きく変わろうとしているからだ。
もっとも典型的な変化は、答えのない問いが盛り込まれる点である。
センター方式では採点の労力から作れなかった記述式が入ってくる。
採点に時間と労力がかかるために避けてきた「答えが一つではない問題」を導入すると言うのだ。
はっきり言って無理だろうとたかをくくっていたが、民間業者を入れて意地でも記述式を入れると言うのだから、文部科学省も本気と見える。
そうなってくると、アクティブラーニングも本格化せざるを得ないと考える吾人も多いだろう。
しかし、である。
アクティブラーニングを全ての授業で本格化する道と並行して、もう一つ文科省が見落としている点があるのではないか。
何しろ、思考過程を論理的に表現する力を問おうと言うわけだから、長い間私が夢見てきた教育改革がいよいよ本格化せざるを得ないと私は考えている。
それはどういうことか。アウトプットを中軸に据えた技能教科「小論文」をカリキュラムの核(コア)に据えたコアカリキュラム型の教育課程編成である。それは、国語と公民の一部を独立させた科目である。そこに、英語の四技能が加わる。
ところで、今度の共通テストだが、英語では「読む」「書く」「聞く」「話す」の四技能を問うという。英語でもインプット中心だった今までよりもアウトプットにシフトせざるを得ない。
はっきり言って嬉しい。
問題は、現場の教育がどう変わるかである。
正解のない問いに、論理的に思考し、判断し、論拠をあげて解答する。
ほら見たことか。小論文を書く力そのものではないか。
全ての科目で小論文を書く時間を導入するか、はたまた私が長年夢見て来た、教科「小論文」を導入するか。
現在のところ文科省は、全ての科目でアクティブラーニングを実現し、かつ新教育課程で新科目を考えているらしい。
これまた、私が夢見てきた「探求」科のようなものらしい。
しかし、それはどうも理系科目らしい。しかし、小論文から研究論文へと発展する科目を、文理問わず創るべきだ。
そう考えると、ますます、「小論文」を核とするカリキュラムへと移行せざるを得ないと思うんだが…。
どうか、真の意味で主体的な学びを育てる新設科目を真剣に検討してほしいものだ。
人は夢を見る。
人間のできることには限りがある。
ある雑誌で読んだ。とある小学校のPTA総会で、保護者からこんな意見が出たそうな。
「こちらが給食費を支払っているのに、子どもたちに『いただきます。』といわせるのは、おかしい!」
会場にいた先生方は、あまりの予想外の発言に言葉を失ったとか。
ウーむ。これは、実話だとしたら、笑えん。
1.日本語の「いただきます」という美しい言葉の意味が分かってない。
2.お金でしか、価値を図れない。
3.学校教育におけるPTAの役割が何なのか、考えていない。
・・・
言いたいことはいっぱいあるが、とりあえず、根拠のない自信をもち、学ぶという謙虚さに欠ける子どもが増えているのは、このような偏狭な価値観をもった保護者が増えていることと関係がある気がする。
最近思います。これからの日本は、地域とかコミュニテイがものすごく大切になるって。
新しい、複数の世代をつなぐWin-Winの関係をつくるところから日本の未来が見えてくるんじゃないかなって気がしています。「人はみんな、少しずつ持っているものが違う。そして、みんなが少しずつ足りないものを補いあう。」そんなコミュニティをいかに作り上げていけるか。
確か、プラトンの『国家論』のなかに、そもそも、複数の人間がそれぞれ得意な才能を発揮し合って、共生することで「必要な国家」が生まれるといった内容が出てくる。しかし、その国家もやがて贅沢をできるところまで発展すると、他国から自国を守ろうとするために、軍人という専門階級をもつようになる。こうして、「熱に浮かされた国家」が生まれ、世界に不正が広がる…みたいな内容だったな(もう10年前くらいに読み直した切りだから、けっこうあやふやな記憶ですが)
今の日本は、熱を冷ましている期間かもしれない。バブルの後、人々は気づいている。本当に必要なものなんて、それほどないことに。だから、これからは、「本当に必要なもの・こと」を、もっているひとが与え、欠けている人が受け取る関係をいかに上手に創れるか、だと思うんです。欲求を作り出して市場競争で資源を配分する、それが資源の最適配分になったアダム=スミスの時代は、とっくに去っている。今や、膨れ上がった欲求は、一部の金持ちのマネーゲームの世界や、「もう一つの現実」みたいなものを作り出している。バーチャルな世界について行けないこちら側の、現実は肌で触れる感覚の伴うものだと思っている人間たちは、そろそろお金儲けからは降りて、心を満たす社会を作り出したくなっているような気がする。
快楽主義者のエピクロスが、「隠れて生きよ」といったが、これは不自然・不必要な欲求が渦巻く、社会から距離を置き、真の友愛のなかで生きよ、という意味だと思う。そこに、真の快楽(アタラクシア=心の平安)があるのだから、と。日本人は今、特に若い世代において欲求が小さくまとまって来ているようにも感じる。それはもしかしたら、最低限で、自然な欲求を満たし合う社会へと向かう前兆ではないのだろうか。大事なの多くの人の心の欠乏(需要)と能力の余剰(供給)をいかに上手に結び付けることができるか、それを資本主義と呼ぶかどうかは、分からないが。僕は、今の仕事をやりながら、そんな社会をつくる方法を模索していきたいと思っている。