コミュニティ型資本主義?(資本主義の今後)

最近思います。これからの日本は、地域とかコミュニテイがものすごく大切になるって。

新しい、複数の世代をつなぐWin-Winの関係をつくるところから日本の未来が見えてくるんじゃないかなって気がしています。「人はみんな、少しずつ持っているものが違う。そして、みんなが少しずつ足りないものを補いあう。」そんなコミュニティをいかに作り上げていけるか。

 

確か、プラトンの『国家論』のなかに、そもそも、複数の人間がそれぞれ得意な才能を発揮し合って、共生することで「必要な国家」が生まれるといった内容が出てくる。しかし、その国家もやがて贅沢をできるところまで発展すると、他国から自国を守ろうとするために、軍人という専門階級をもつようになる。こうして、「熱に浮かされた国家」が生まれ、世界に不正が広がる…みたいな内容だったな(もう10年前くらいに読み直した切りだから、けっこうあやふやな記憶ですが)

 

今の日本は、熱を冷ましている期間かもしれない。バブルの後、人々は気づいている。本当に必要なものなんて、それほどないことに。だから、これからは、「本当に必要なもの・こと」を、もっているひとが与え、欠けている人が受け取る関係をいかに上手に創れるか、だと思うんです。欲求を作り出して市場競争で資源を配分する、それが資源の最適配分になったアダム=スミスの時代は、とっくに去っている。今や、膨れ上がった欲求は、一部の金持ちのマネーゲームの世界や、「もう一つの現実」みたいなものを作り出している。バーチャルな世界について行けないこちら側の、現実は肌で触れる感覚の伴うものだと思っている人間たちは、そろそろお金儲けからは降りて、心を満たす社会を作り出したくなっているような気がする。

 

快楽主義者のエピクロスが、「隠れて生きよ」といったが、これは不自然・不必要な欲求が渦巻く、社会から距離を置き、真の友愛のなかで生きよ、という意味だと思う。そこに、真の快楽(アタラクシア=心の平安)があるのだから、と。日本人は今、特に若い世代において欲求が小さくまとまって来ているようにも感じる。それはもしかしたら、最低限で、自然な欲求を満たし合う社会へと向かう前兆ではないのだろうか。大事なの多くの人の心の欠乏(需要)と能力の余剰(供給)をいかに上手に結び付けることができるか、それを資本主義と呼ぶかどうかは、分からないが。僕は、今の仕事をやりながら、そんな社会をつくる方法を模索していきたいと思っている。