過剰な存在

人の心は常に過剰な存在だ。身の丈にあったものだけを求めるなら、何も悩まずに済むのに、常に自然に反して求めすぎてしまう。
時間は同じだけ与えられているのに、常に短いとか長いとか、足りないと言ったかと思えば、もて余したりする。
今、こうしている瞬間に本当は違う時間の過ごし方があるのではないかと考えたり、無理と承知で未来や過去にワープしてみたくなったりする。
つまり、人間は自然から外れてしまった動物なんだろう。
身体という自然に反して、頭痛を無きものにしたかったり、休息を欲しているのに眠りたくないと抵抗したりする。
そうした悪あがきを繰り返しながら与えられた時間だけ生きて自然に還っていく。

生きるとは過剰を消費することだ。
人類が過剰な欲望を持たなければ、自然を壊したりしてこなかっただろう。
ただ生命を維持し、子孫を残すことでその使命を果たそうとする他の動物とは異なり、人間は愛などということばを知ってしまった。
永遠などという自然界には存在しないであろう幻想を求める。

文化とは過剰の幻想が生み出した人類の精神的遺産であって、文明とは過剰な欲望が生み出した物質的遺産だと思う。
身の丈にあったものだけを求め、今ここだけに生き、生命の維持活動に埋没できたなら、自然を傷つけたり、自然を過剰に消費することもなく生態系の一部で生き、死んでいけたであろうに。
悲しみも、哀しみも、動物らしく感じたり、喜びも、悦びも、ヒトらしく受け取れたりしただろう。

過剰の発現装置である人間らしい心を消してしまいたい。
でも、それでは人間として生きたことにならない。なぜなら、人はヒトではなく人間としての「生」しか生きられない過剰を抱え込んだ厄介な存在だから。

どこまで生かされれば自分の寿命が尽きてくれるのかを人間は知り得ない。だから、人間は恐れる必要もない死を思い悩む。
人間は知り得るはずもない死を知りたいと望む。知り得ないものに怯える。だが、そうした過剰が人間らしさなのだ。

だとすれば…、私は動物であることを忘れずに、それでも人間らしい悪あがきの仕方を知りたい。

「人間」らしい身の丈にあった生の在り方を見つめ、求めたい。