本当に書くという行為は、記憶の片隅に沈み込んでいたものを引き上げてくれる。
小論文を授業に取り入れ始めたころ、よく生徒はこんなことを書いていた。
「みんな考え方が違うんだから、みんなに共通した正しい答えなんてない。私がそれを正しいと思うんだから、それで良いのではないか。他者には他者の考えがある。私はそれを否定しない。」
時代的なものをそこに感じる。もう死語にになりつつある「援助交際」が問題になっていた時代だ。
当時は、援助交際について書かせると、こんな内容の解答が多かった。
「援助交際は、私はしようとは思わない。だが、したいのであればそれは個人の自由だと思う。」
自然科学には正解があり、人文科学や社会科学には正解はない。科学的な真理という点で、人間や社会に関する真理への懐疑が強かった時代だ。オウム真理教の幹部に理系の学生や文系でも優秀な学生が多かったのは、こうした人間の生き方に関する懐疑主義が背景にあるような気がする。宗教はそうした懐疑に対する絶対的な価値判断をもたらす力を持っている。
過度な価値相対主義は、だから、人間の生き方に正しい基準なんてどこにもないという懐疑主義へと結びつく。
私が授業で小論文を書かせることを始めたのは、まだ、そんな時代の空気が残っていたころだった。
人として、といった道徳や倫理に著しく自己中心的な個人主義が広がった時代だ。
援助交際をする未成年の女子が、誰にも迷惑をかけてない。自分の生き方は自分で決めれば良い。他者に迷惑をかけない限り、生き方に正しいも間違いもないと、開き直り、それに対する説得力のある反論がなかなか見つからなかった時代だ。
朝まで生テレビで、「なぜ人を殺してはいけないんですか?」という学生の発言に有識者たちが満足な答えを提示できずに話題になったのも、このころだったような気がする。
私は、生徒たちに言い続けた。
「人はみな、一人ひとり考え方が違う。だから、みんなにとって正しいことがないのではなく、みんなで正しいことを探すことが大切なんだ。違うから共通点を見つけることができる。最初からみんなが同じ答えをもっているのなら、対話する必要も、議論する必要もない。小論文を書くのは、そうした真理の探究へと自分を開いていく営みなんだ。」
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