小論文を書く目的は、読み手に自分の考えを理解してもらうことだ。しかし、「書く」という行為にはもう一つ大切な目的がある。
自分自身との対話である。
対話、と書いて思い出した。確か、古代ギリシアの哲学者プラトンだったと思う。「考える」ということは自己と対話することだと、彼はどこかに書いていた。そして、彼は膨大な数の哲学書を「対話」形式で書き残した。一説に、書きながら死んで行ったとも言われている。
書くことで自分自身の考えがはっきりとしてくる。書きながら、自己と対話する。
対話することで自分の中に何かが浮かんで来て、次第にはっきりと明確になる。ぼんやりとしか頭に浮かんでいなかった何かに、ことばが与えられる。
自分がなぜ、小論文指導にこだわり続けて来たのか。それを思い出した。
「考える力」を生徒たちの中に育てたかったからだ。だから、小論文を「書く」という行為を授業に取り入れようとした。
書くと、どんどん思い出す。書くとそれまでの頭の中にあった靄が晴れ、その向こうにあったものがはっきりしてくる。書くことで、頭の中のクラウドがことばという形に整理される。ことばという形でファイリングされることで、安心して次の事柄に心が向き合える。
もともと私の授業へのこだわりは、「対話」のある授業だった。林竹二先生の授業に感銘を受けたのが始まりだった。生徒との対話がある授業を展開したい。それは、今言われるところのアクティブラーニングと求めていることは同じだったと思う。何も、活発な話し合いだけがアクティブラーニングではない。表面的に活発に見えても、薄っぺらい思考力しか発揮していない授業より、先生だけが喋っていても生徒の心の中に深い対話が生じている授業の方がよりアクティブなラーニングになっている。
私が林竹二先生の授業に感動し、自分もやってみたいと思った授業は、生徒たちが自分自身と深く対話する授業だった。それには、小論文という方法が優れている。それが端緒だった。
書くということは、自己との対話。そして、他者との対話へと自己を開く行為である。
書いたものを読んだ者が、またそこから対話する。生徒との往復書簡が次のテーマだった。そうして、添削指導を始めた。他者との対話を通して学ぶ。書くことを通して深い学びをさせたい。そう考えて、生徒の書いたものに赤ペンで対話し始めた。実に楽しかった。次第に小論文指導を受けに通ってくる生徒が増えた。放課後に列をなすこともあった。次の課題は、いかに効率的に多数の添削指導をこなすかになった。そして、授業を通して「書く」力を身に付けさせるにはどうすれば良いのか、を考えるようになった。
書くと、次から次に思い出す。だが、あまりに長い文章は嫌われる。もう今日は、やめておこう。小論文指導を始めた端緒と、そこにあった思いを明確にできたことで今は満足したいと思う。
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