はたして人は、どこまで正確な自画像を描けるだろうか。
鏡を前に筆を取り、細部までこだわって筆を走らせる。
デッサン力の問題ももちろんあるだろう。しかし、
それよりももって根深い問題がそこにはないだろうか。
願望という色眼鏡をどこまで外せるか、だ。
ひるがえって、今度は他者を描いてみよう。
見たままを描いてみる。
しかし、ここにもまた根深い問題があるだろう。
一面性という問題だ。
自分が見ているその人は、はたして、どこまでその人そのものなのか。
描く技術の問題を脇に置き、客観性に徹したいと思っても、私には自分を見つめる時に、願望という眼鏡が外せず、他者を描く際にも一面性という限界を超えることが難しい。
ドイツの哲学者カントは、感性形式にもたらされない物自体は、認識できず、悟性のカテゴリーなしに知的認識は得られないと言った。
私は、そこにさらに二つの制約を加えて見たい。願望という自我にまとわりつく感情と、一面性という感覚につきまとう身体性だ。
人を、自己であれ他者であれ、あるがままに認識するには、人間はあまりにも未熟な存在だ。