アクティブラーニングとは?
もっとも、最近、文部科学省は意識的にこの用語を使わない。
何やら、体験型学習であるかのような誤解を招くからだろうか。
代わりに意識的にかつ、頻繁に用いられるのが「主体的・対話的で深い学び」である。
では、「主体的・対話的で深い学び」は、いかにして可能か?
私が思うに、これは自ら知識を構成し、自らの狭い見識を他者の見識やより広い知識や考えを取り入れつつ再構成する営みを各自が他者や自らと対話しながら再構成していくことで可能になる。
今日、紹介したいのは東京大学が提唱する「知識構成型ジグソー法」」である。
詳しくはこちらのHPを参照して欲しい。http://coref.u-tokyo.ac.jp/archives/5515
ポイントは、クラス全員に一つ発問を教師が設定し、各自が自分の知識と調べた資料から答えを考える過程と、そうして得た各自の見識を同じ資料に基づいて検討し合う過程、そうして得た見解をさらに異なる資料を用いた他のグループのメンバーと交換し合う(自分の言葉で表現し合う)ことで知見を広げ、深める過程、さらにそうして得たより広い視点からの深い見識を発表(表現し合う)することでより広く深く考えられるようにする過程、最後にまたそれまでの学びを自分の中で整理し論理的に表現する過程を設定するところである。
つまり、各自が自分なりの考えを論理的に構成する過程と互いに異なる見識を交換し合うことで各自の知見を広げ深める過程を繰り返すところである。
これを私なりに言い換えるなら、こうであろう。
「問い」と問いに対する暫定的な「答え」とその「理由・根拠」を表現し合い、他者の視点から「深められた自己の考え」を再構成して表現し合う過程を授業の中で実現するということだ。
これこそ、小論文を書く際の思考ステップ以外の何者でもないのではないだろうか?
やはり、考え学ぶ営みの表現としての小論文を基盤に置いた授業の必要性を説いてきた自分の主張と重なり合うと思う。
何と命名しようが、つまるところ、学ぶという営みの本質は共通する。
学ぶ営みの筋道を基本に据えた授業実践によって、主体的に探求し、自分の考えを表現する力をつけさせること。
それこそが、今教育現場で求められており、その一つの実践モデルが「知識構成型ジグソー法」なのだと思う。